Tips - Onsen mannersThere are several manners in Japanese hot springs. They are not difficult, but they can be confusing because there is no opportunity to learn them.Here, we introduce some simple manners. We hope you will find them useful.日本の温泉にはいくつかのマナーがあります。難しいものではありませんが、教わる機会がないため、とまどってしまうこともあります。ここでは、簡単なマナーを紹介しています。ぜひ参考にしてください。1. Eating and drinking is prohibited in onsen2024.04.22 07:01
【コラム】湯屋と呼ばれて20202001年に「千と千尋の神隠し」が公開されて20年目となりました。先日(2020年9月18日)に、スタジオジブリ公式サイトにて、映画の場面写真の提供(使用許可)が発表され、それを使用して九代目が長文のブログ記事を書いています。(金具屋サイト内で使用するのはNGだろうという判断で、別ブログとなっています)これまでの疑問の一応の決着となっています。ご興味ある方はぜひご覧ください。https://kawaraguya.exblog.jp/30230295/2020.09.24 05:17
鎌倉風呂について<詳しく>現在金具屋にあるお風呂の中で一番古くからあった名前のお風呂が「鎌倉風呂」です。登録文化財になっている木造4階建「斉月楼」や「大広間」と同じ昭和11年に完成しました。しかし、建物の柱が痛んでしまったということで、昭和52年に解体され、同じ名前の新・鎌倉風呂をコンクリートで再建しています。瓢箪型の浴槽が特徴的。こちらのお湯は、共同引湯で地獄谷の荒井河原比良の湯と渋温泉温泉寺寺湯の混合泉。白い湯花が湧くお湯です。2019.03.18 09:27
浪漫風呂について<詳しく>金具屋で一番特徴的なお風呂として取り上げられることが多い「浪漫風呂」「円形」の温泉浴場というのは珍しいかもしれませんが、この浪漫風呂、もともと「ローマ風呂」として昭和25年に造られたものだったのです。2018.07.23 07:06
【コラム】湯屋と呼ばれて20172001年にスタジオジブリの「千と千尋の神隠し」が公開されて以降、金具屋の建物がそのモデルではないか?という問い合わせをたくさんいただきます。この記事を書いている2017年になってもなおそのような話題は多く、あらためて千と千尋のすごさを感じています。事実だけ申し上げますと、千と千尋の制作の為に監督やスタッフの方が金具屋に訪れたということはありません(こっそり来られていたらわかりませんが)。基本的に宮崎監督の映画の場合はほとんどロケハンはせずご自身の記憶と深い知識と半径3m以内のものにより作り上げられるそうです(※例外アリ)。2017.07.25 03:03
料理スタイルについて金具屋のお食事は「宴会会席」とよばれる様式をとっております。「会席料理」は、宴会の酒の肴として料理が並べられるものです。「懐石」と音が同じ為混同されることがありますがまったく異なるものです。汁とご飯が最後に提供されるのはその為です。そして日本の宴会は、自由に席を立ち、お酌にまわりながら歓談をしていくものであり、席から離れず一品ずつ料理を楽しむものではありません。2017.04.30 00:53
金具屋の歴史その9(平成時代1990-)1990年代に起きた最大のトピックは、渋温泉の石畳と長野冬季オリンピックでした。今は当たり前のように敷かれている渋温泉の通りの石畳は1990-91(平成2年~3年)の2年間かけて工事されたものです。渋温泉全体の工事ともいえる大規模なものとなりました。この時にはいろいろ議論されたのでしょうが、大きなハコものを作るのではなく、道を広げたりといった利便性ではなく、昔の街並みを整えるための工事を行ったというのはその後の渋温泉にとって大きな舵きりだったのかもしれません。2017.03.02 14:26
金具屋の歴史その8(昭和後期1970-90頃)高度成長により企業の社員旅行が全盛だった70年代。バスでの団体両行が主流となり、全国各地に巨大旅館が立ち並ぶようになりました。近隣でも施設の大型化が進んでいきました。しかし渋温泉は道が狭くバスが入れません。バスで乗り付けることができる、これは「快適・便利」をモットーにする当時の旅行では必須条件でした。さらに土地が狭く施設も小さい。バス3台の団体ともなれば、1軒で受け入れられる施設はありませんでしたので、渋温泉自体が旅行先から消滅していくことになります。金具屋も一時期は、木造4階建斉月楼を潰し、そこに収容力の高い大きなビルを建てる計画があったのですが(完成予定図もありました!)、すでにその資金力はなかったのです。(…よかったですが)そのあたりから志賀高原が第2次ブームにさしかかります。スキー修学旅行の受け入れの大ヒット、そこから87年の「私をスキーに連れてって」ブームにより90年にかけ全盛に。渋温泉では志賀高原のホテルも経営している旅館も多かったのですが、渋で稼げない分を志賀で稼いでいた、そういう時代でありました。しかしそんな最中でも、金具屋では施設の刷新をしておりました。昭和52年 鎌倉風呂の立て直し(木造からコンクリート造になります)昭和54年 本館の全面改装。名称を「神明の館」にこれでほぼ、設備も客室も現在の金具屋の構成となりますが今と大きく異なるのは玄関部分で、2017.02.23 10:53
金具屋の歴史その7(昭和40年前後1960-70頃)昭和40年前後、いわゆる高度成長期真っ只中の時代。国民の生活水準もあがっていき、『便利・快適』が求められていきました。金具屋でも昭和41年にエレベーター棟を建設。当館をご利用の方はわかると思いますが、昭和11年に裏山の山腹に建てた大広間まで、このエレベーターができる前までは当然すべて階段でした。130段以上もあり宴会をするのも容易ではありません。『心臓破りの階段』と言われていたそうですが、八代目が子供の頃は、その宴会場までごはんのおひつを運ぶのが小遣い稼ぎであったそうです。そのエレベーターが完成したおしらせのハガキが残っています。2017.02.20 06:30
金具屋の歴史その6(昭和30年前後1950-60頃)戦後から急激な高度成長期へ突入したこの時代、日本人の文化も目まぐるしい変化を遂げていきます。衣・食・住が洋式にかわっていった時代、旅館が求められるものも大きく変わっていきます。はじまりは昭和24年12月に施行された「政府登録国際旅館制度」。今後の国際的な観光に向けて外国からの旅行者が不便にならないように一定の基準をもったホテル・旅館を登録するという制度でした。内容を見ると『国が日本旅館のホテル化を推奨した』、と言ってもいいかもしれません。この時に金具屋は屋号を金具屋ホテルとし法人化、客室の入口に鍵がつき、部屋番号をふったのです。旅館のホテル化、これはよい、悪いではありません。そうしなければお客さんが来なかった、このようにして変わっていくものなのです。それは金具屋にとっても同じでした。次の写真をみてください。2017.02.19 10:36
金具屋の歴史その5(昭和20年前後1940-50頃)昭和11年、すべてをかけて建築した木造4階建斉月楼、大広間、鎌倉風呂。大変な話題となり、高官の指定旅館になるなど順調な営業が続くかと思われましたが、昭和16年太平洋戦争が開戦し、徐々に戦況が苦しくなるにつれ経済も低下。一般市民が遊びの旅行に出るという時代ではなくなっていきました。さらに決定的となったのが、昭和19年からの学童疎開。同6月に決定された「学童疎開促進要領」、同7月の「帝都学童集団疎開実施要領」に基づき、8月より学童を受け入れることになりました。渋温泉には高田第一~五、池袋第六国民学校の子供たちがやってきました。金具屋では高田第四国民学校の生徒119名をうけいれていました。契約期間は1年。当然これは東京都の借り上げとなり、通常の営業はすることができません。1畳月額4円、食事賄費が児童1人あたり月額20円だったそうです。渋温泉この時代をよく知る方も多いはずなのですが、あまりにも大変な時代だったために、あまり詳しく話してもらえません。お金はもらえても、食材も手に入らない時代に毎日3食違う食事を用意することだけでも非常に苦しんだそうです。さらにその最中、大きな災害が起きます。昭和20年2月12日、数日降り続いた大変な大雪(※栄村で記録になった日です)により、金具屋の大広間が倒壊してしまいます。大広間には寝泊りはしていなかった(教室として使用していたようです)のと、すでに危険であることがわかっていたため、人的な被害は一切ありませんでした。ただ、戦争のために男手がすべてとられてしまったために雪が下せず倒壊してしまったということで、これも戦争の影響のひとつといえます。このようなことが起き、金具屋で受け入れていた児童は三才のお寺へ再疎開となります。以降は陸軍病院として傷痍軍人の受け入れを行っていたようですが、その詳細は不明です。戦後すぐ、大広間の再建にとりかかります。昭和24年より善光寺参拝旅行が再開となるとのことでその見込みもあったと思いますが、昭和25年施行の建築基準法で木造建築が大きく規制されることをうけて、なんとかそれまでに出来ることをやろうとしたのではないでしょうか。そこで再建された大広間の当時の写真がこちらです。2017.02.18 07:49
金具屋の歴史その4(昭和10年前後1930-40頃)当地一番の観光旅館を目指す―計画されたのは渋温泉に聳え立つ木造4階建の豪華な客室楼閣、300名が一堂に会せる巨大な宴会場、名物となるような凝った木造浴堂でした。この工事の棟梁を任せたのが、小布施の宮大工、三田清助(さんたせいすけ)。彼は若いながらも木信地方の名匠と呼ばれ、さまざまな社寺仏閣や作詞家高野辰之の都内の住居を手掛けたことでも有名でした。2017.02.17 04:04